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ミャンマー内戦の歴史的な背景から、少数民族の対立やその経過、内戦が国内外に及ぼした影響、さらにロヒンギャ難民問題や2021年の軍事クーデターによる政治的混乱までをわかりやすく解説。内戦がどのように発展してきたのか、またその影響がどのように続くのかについても紹介する。
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エレミニスト編集部
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ミャンマー内戦は、同国が長年にわたり直面している複雑な政治・民族問題を背景にした紛争である。1948年に英国から独立した後、ミャンマーは多数の民族グループによる自治要求や武力闘争に悩まされてきた。ミャンマー軍は、1962年から2011年までの約50年間国政を支配し、長年にわたり軍事政権による統治が続いた。
軍は中央集権的な統治を行い、少数民族地域での独立運動を抑圧した。これに対し、多くの民族武装勢力や反政府勢力が抵抗し、とくに、アウンサンスーチー氏が率いる国民民主連盟(NLD)は、1988年から軍事政権に対する民主化運動を展開してきた。2011年にミャンマーで半ば民主化が進み、NLDが選挙で勝利したものの、軍は依然として強い政治的権力を保持していた。そして2021年2月に軍は再びクーデターを起こし、アウンサンスーチー氏やNLDの主要メンバーを拘束した。これにより再び軍政が権力を握り、国内の民主化運動と軍との間で激しい対立がいまもなお続いている。
ミャンマー内戦の根底には、英国による植民地支配、複雑な民族構成、そして軍事政権と民主化運動の対立がある。イギリスの植民地政策によって分断されていたビルマ(現在のミャンマー)は、独立後に民族対立や権力闘争が激化し、国内の分裂と長期的な内戦を招いた。ここではミャンマーの内戦に至る背景として、植民地時代、独立後の軍事政権、民主化運動の展開について順を追って解説する。(※1)
ミャンマー(当時のビルマ)は、1885年から1948年まで英国の植民地であった。英国はこの地を経済的に支配し、インドなど他の植民地から労働力を輸入する一方で、少数民族を活用して統治を行った。この統治方法は「分割統治」と呼ばれ、主要民族であるビルマ族と少数民族の間に深刻な分断を生んだ。とくにカレン族、シャン族、カチン族といった少数民族は、英国の支援を受けて軍隊や自治を保ち、ビルマ族との間に対立構造が生まれた。
英国は少数民族を軍や行政の要職に配置することで、ビルマ族の影響力を抑えた。しかしこれにより独立後のミャンマーでは少数民族がビルマ族と対立し、内戦の火種がつくられたのである。1948年にビルマは英国から独立を果たすが、少数民族とビルマ族の対立は解消されず、むしろ民族間の緊張は激化していった。少数民族は独立後も自治権や独立を要求し、これが内戦の一因となっている。
独立後のビルマは連邦制を採用し、少数民族に一定の自治権を認めたが、中央政府の統治力は弱かった。これにより少数民族の武装勢力が台頭し、各地で内戦が勃発した。ビルマ族を中心とする政府軍と、少数民族の武装勢力との間で長年にわたる戦闘が続く中、1962年に軍がクーデターを起こし、ネ・ウィン将軍が指導する軍事政権が成立した。
軍事政権は「ビルマ式社会主義」を掲げ、一党独裁体制を敷いた。経済は国有化され、国民の生活は急速に悪化した。これにより国内は混乱し、少数民族の武装闘争がさらに激化した。軍事政権は、武力によって国内の統制を強化し、少数民族の反政府活動を弾圧したが、これにより内戦はさらに長期化することとなった。
一方でビルマの国内政治は軍による独裁が続き、国際社会から孤立していく。軍事政権は少数民族に対する抑圧を強化する一方で、反対勢力や民主化運動を徹底的に弾圧し、国内の自由を制限していった。
ビルマ国内では、1980年代に入り軍事政権に対する反発が強まった。1988年には全国規模で民主化を求める学生運動が発生し、これが後に「8888蜂起」として知られる民主化運動に発展した。軍はこの蜂起を武力で鎮圧し多くの市民が犠牲となったが、この運動を契機に、「建国の父」としていまもなお絶大なる支持をもつアウンサン将軍の娘アウンサンスーチー氏がNLDを結成し、民主化運動のリーダーとなった。アウンサンスーチー氏は、ノーベル平和賞を受賞するなど、国際的にも高く評価され、民主化の象徴として広く認知された。(※2)
1990年に実施された総選挙ではNLDが圧倒的勝利を収めたが、軍事政権は結果を無視し政権交代を拒否した。これにより、国内は再び軍事政権と民主化運動の対立が激化した。その後もアウンサンスーチー氏は自宅軟禁されるなど、軍の強硬な弾圧を受け続けたが、2011年に軍事政権が一定の民主化改革を行い、彼女の解放とNLDの合法化が実現した。これにより2015年の選挙ではNLDが再び圧勝し、アウンサンスーチー氏は実質的なリーダーとして政権運営に携わることとなった。
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ミャンマー内戦の始まりは、独立後まもなくの1948年にさかのぼる。ビルマ(現ミャンマー)は、少数民族が自治や独立を求めたことで、中央政府と民族武装勢力との間で対立が激化した。これに加え、1962年の軍事クーデターによってネ・ウィン将軍が政権を掌握し、軍事独裁が始まったことで、内戦の火種が一層広がった。軍は少数民族の反乱に対して強硬な姿勢を取り、各地での戦闘が長引いた。
1988年の「8888蜂起」を契機にアウンサンスーチー率いる民主化運動が勢力を拡大したが、軍は1990年の選挙結果を無効にし、民主化への道は一時閉ざされた。その後2011年に軍事政権が部分的に民主化を認め、2015年の総選挙でNLDが勝利したが、2021年の軍事クーデターにより再び軍政が復活し、民主化運動は大きな打撃を受けた。現在も少数民族の武装勢力や市民による抵抗運動が続いており、国際社会からの制裁や外交的な圧力も強まっているが、内戦の終結には至っていない状況である。
ミャンマー内戦は、ここまで国民の生活や社会全体に深刻な影響を及ぼしてきた。長年にわたる紛争は、人道的危機、経済的停滞、社会基盤の崩壊など、多方面にわたる問題を引き起こしている。また国際社会との関係にも影響を及ぼし、制裁や孤立を招いている。内戦がもたらした主な影響を見ていく。
内戦により、多くの一般市民が暴力や迫害から逃れるために国内外へ避難を余儀なくされている。難民や国内避難民の数は増加の一途をたどり、2024年9月現在、300万人以上が国内においても避難を強いられ、1860万人以上が人道支援が必要な状況が続いている。とくに子どもや女性、高齢者などの弱者が深刻な影響を受けており、人権侵害や虐待の事例も多数報告されている。これにより、地域の安定や安全保障にも影響が及んでいる。(※3)
長期にわたる内戦は、ミャンマーの経済発展を大きく阻害している。投資の減少、産業の停滞、インフラの破壊などにより、国民の生活水準は著しく低下している。失業率の上昇や物価の高騰も深刻であり、多くの人々が貧困に苦しんでいる状況である。また、経済的困窮は犯罪の増加や社会不安を引き起こしている。
内戦の影響で、教育や医療などの社会基盤が機能不全に陥っている。学校や病院が破壊されたり、教員や医療従事者が不足したりしているため、基本的なサービスが提供できない状況が続いている。これにより、識字率の低下や疫病の蔓延など、将来的な社会問題も懸念されている。とくに若者の教育機会の喪失は、国の将来に深刻な影響を与える可能性がある。
ロヒンギャ問題は、イスラム教徒であるロヒンギャ族とミャンマー国内の多数派を占める仏教徒間の、長年続く民族・宗教的な対立である。ロヒンギャ族はイスラム教徒の少数民族であり、隣国バングラデシュとの国境地帯に暮らしてきた。しかしミャンマー政府は彼らを正式な国民と認めず、「ベンガル人」として不法移民扱いをした。
とくに2012年の仏教徒とイスラム教徒の激しい衝突では、多くのロヒンギャ族が家を失い、避難生活を余儀なくされた。さらにその後の2017年には、ミャンマー軍がロヒンギャ族に対して大規模な軍事作戦を展開し、多くの村が焼き払われ住民が殺害されるという悲劇が起こった。これにより、70万人以上が隣国バングラデシュに避難する事態となった(※4)。
この問題はミャンマーの内戦とも密接に関連しており、民族間の争いや人権侵害が複雑化している。国際社会は人道的危機として強い懸念を示しているが、根本的な解決は見えていない。
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2021年2月1日、ミャンマー軍はクーデターを起こし、アウンサンスーチー国家顧問や国民民主連盟(NLD)の主要メンバーを拘束した。軍は2020年の総選挙で不正があったと主張し、非常事態宣言を発令して政権を掌握したが、この選挙ではNLDが圧勝しており、国際的には不正の証拠は認められていない。軍の指導者ミン・アウン・フライン将軍が事実上の統治者となり、ミャンマーは再び軍事政権の下に戻った。(※5)
クーデター直後から全国で市民による抗議デモが広がり、民主化を求める運動が活発化した。これに対して軍は強硬な弾圧を行い、抗議者に対して実弾を使用するなど、多くの死傷者が出た。国際社会は軍事政権に対して強い非難を表明し、経済制裁や外交的圧力を強めているが、軍は政権を放棄する気配を見せていない。国内の混乱と武力衝突が続く中、ミャンマーの民主化は再び遠のき、内戦の長期化と人道危機が深刻化している。
ミャンマー内戦は、少数民族の自治要求や軍と民主化運動の対立が絡んだ長期的な紛争である。民族対立や権力闘争は短期的な解決が難しく、歴史的背景が複雑に絡み合っていることが大きな要因である。とくに2021年のクーデター後は少数民族だけではなく全体に広がり、国内はさらに混乱。戦闘や抑圧により数十万人の市民が犠牲となり、国内避難民や難民が増加している。
そのうねりはいままでにない広がりをみせており、民主派勢力も呼応して攻勢を強めミャンマー軍を弱体化させている。未だ解決の糸口は見えていないが、国の将来や若者のために、民主化という最終目標に向かっていまも多くの人々が戦っている。
※1 国軍クーデターから3年 混迷深まるミャンマー —見落としてはならぬアジアの紛争 日本の関与の在り方は?—|一般社団法人 平和政策研究会
※2 ASEANにとってのミャンマー問題 -安全保障の視点から|NIDS貿易研究所
※3 ミャンマーの混乱から逃れる家族を守り、支えるために|国連UNHR協会
※4 ロヒンギャとは?ロヒンギャ難民の歴史や現状、私たちにできること|PLAN・INTERNATIONAL
※5 ミャンマーのクーデタとASEANの対応――関与政策の行方|NIDS貿易研究所
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