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1688年から1689年にかけてイギリスで起きた「名誉革命」。この革命はなぜ起きたのか、「名誉」といわれている理由、革命の特徴やその後の影響などについて解説する。
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「名誉革命」は、1688年から1689年にかけてイギリスで起きた、市民革命である。この革命は、無血で成功したことから「無血革命」とも呼ばれる。イギリス議会が国王・ジェームズ2世を国外に追放し、国王の長女であるメアリー2世と、その夫であるオランダ総督・ウィリアム3世を共同統治者にした。
この名誉革命が起こる数十年前には、国王が処刑される「ピューリタン革命(清教徒革命)」があり、ピューリタン革命と名誉革命を合わせて「イギリス革命」という。(※1)
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名誉革命はなぜ起きたのか、その背景を解説する。
ピューリタン革命により王政は途絶え、イングランドは共和制となる。政治の実権を握ったのは、プロテスタントのカルヴァン派である「ピューリタン」のクロムウェルだ。クロムウェルは軍事独裁体制を敷いたことで、イングランド市民の不興を買ってしまう。
クロムウェルが病没し共和制は崩壊。議会はフランスに亡命していた王子(のちのチャールズ2世)を帰国させ、王政復古となった。(※3)
名誉革命が起きたのは、イギリスのスチュアート朝最後の君主であるジェームズ2世の時代であった。そもそもこのスチュアート朝は、14世紀末からのスコットランドの王朝で、エリザベス1世の死後にジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王位を継承して開かれた。のちにジェームズ1世の息子であるチャールズ1世と、彼の息子であるジェームズ2世が王となる。
当時のイギリスでは、プロテスタントのイギリス国教会が主流であった。しかしジェームズ2世はカトリックに改宗しており、宗教的対立を深めていった。(※2)
前述したとおり、ジェームズ2世が信仰していた宗教はカトリックであった。彼は議会の意見を無視し、カトリック教徒を重要な公職に任命したり、信仰自由宣言を発してカトリックを優遇する政策を実施したりと、専制的な政治を強行した。このような政治が、プロテスタントのイングランド国民や議会に強い不満を引き起こした。(※1)
ジェームズ2世は、跡継ぎである息子にもカトリックの継承を望んでいた。王の息子がカトリック教徒として育つことになれば、カトリックの王朝が長く続く可能性があったため、これを懸念するプロテスタントたちは反発した。(※1)
ジェームズ2世の政策に反対する議会と貴族たちは、オランダにいるジェームズ2世の娘であり、プロテスタントのメアリーと、その夫のウィリアム3世をイングランドに招き、ジェームズ2世を排除することを決断する。ウィリアム2世は1688年に軍を率いてイングランドに上陸し、ジェームズ2世は抵抗できず、フランスへ亡命した。(※1)
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名誉革命とピューリタン革命(清教徒革命)の2つを合わせて「イギリス革命」と呼ぶ。ここでは、2つの革命の違いについて解説する。
「ピューリタン革命」は1642年から1660年にイギリスで起きた市民革命のことで、「清教徒革命」とも呼ばれている。専制政治を強いる国王・チャールズ1世と、それに反対したピューリタンを中心とする議会派の間で対立が起こり、内乱に発展。クロムウェルの率いる鉄騎隊の活躍で議会派が国王軍に勝利する。その後クロムウェルがチャールズ1世を処刑し、共和制を始めた。(※3)
どちらも国王と議会の対立によって起きた市民革命であるが、名誉革命の特徴として挙げられるのは、国王ジェームズ2世を国外に追放させるまでの過程において、大きな混乱が起こらなかったことである。名誉革命は流血や暴力といったことがなく、内乱も大虐殺も人権剥奪もなく革命が実現したことから「名誉革命」「無血革命」と呼ばれている。(※1)
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名誉革命の結果とその影響についてみていこう。
名誉革命の結果、メアリー2世とその夫オレンジ公・ウィリアム3世が共同統治者となった。新国王となった夫婦は、議会の決議した立憲君主制を認める権利の章典にサインした。これにより君主制が制限され、立憲君主制が確立された。(※1)
立憲君主制とは、三権分立の原則を認めた憲法にしたがって君主の権力が一定の制限を受ける政治体制で、国王は君臨するが統治はせず、議会が政治を行うことを指す。(※4)
1689年12月に制定された法律が「権利の章典」である。正式には「臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律」という。その内容には、王が議会の同意なしに法律を制定したり税金を徴収したりすることの禁止、国民の請願権、宗教裁判所の設置などがある。「権利の章典」により王権は大きく制限され、議会の権力が強化された。(※5)
「権利の章典」により、立憲君主制の基礎が確立した。また議会主権や議会の立法至高性などの原理も確立。成文憲法をもたないイギリスにおいて重要な基本法のひとつとなっており、イギリス憲法発展へ貢献している。(※5)
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名誉革命は、イギリス社会において政治、宗教、市民、経済や社会構造に大きな変革をもたらした。それぞれの変革について解説しよう。
名誉革命は、イギリスの政治制度に大きな変化をもたらした。それが、王権の制限と議会主権の確立である。「権利の章典」により、国王が議会の同意なしに法律を制定したり税金を徴収したりすることができなくなり、イギリスは事実上の立憲君主制に移行した。(※1)
また権力強化を支持するホイッグ党と、王権を重視するトーリー党という二大政党が台頭し、現代の政党政治の基盤が形成された。(※6)
名誉革命後に制定された「寛容法」により、イギリスでは宗教的寛容が実現され、プロテスタント非国教徒にも信仰の自由が認められた。また、プロテスタントを主軸とした立憲王政が確立した。(※1、※7)
名誉革命後、臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律である「権利章典」が制定された。「権利章典」の第5条には「正当な法の手続なしに生命、自由、財産を奪われないこと」とある。(※1)
名誉革命が政治的な安定をもたらしたことにより、経済にも好影響があった。そのひとつがイングランド銀行の設立だ。イングランド銀行は国家財政の赤字や通貨不足を補うために設立され、イギリスの金融制度の基礎を築いた。(※8)
また議会主導の政治体制が整うなか、大地主や富裕な商人層の議会での影響力が増し、その影響力は社会的にも強まっていった。(※1)
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名誉革命では、流血や暴力といったことがなく革命が実現した。この革命は政治的安定と議会主導の体制をもたらし、経済の自由化、商業資本主義の発展、そして社会構造の変化を促した。
※1 名誉革命|コトバンク
※2 スチュアート朝|コトバンク
※3 ピューリタン革命|コトバンク
※4 立憲君主制|コトバンク
※5 権利の章典|コトバンク
※6 第1節 政党|自治体国際化協会
※7 主権国家体制の形成|NHK
※8 イングランド銀行|コトバンク
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