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冷戦以後の世界は、湾岸戦争によって大きな変化を遂げた。新たな秩序の構築、アメリカの台頭、テロリズムの加速など、変化は戦争終結から30年以上経った現代にも影響を与え続けている。この記事では、湾岸戦争の大まかな発端や流れを説明し、その後の世界に与えた影響について詳しく解説する。
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湾岸戦争は、1990年8月2日にイラクがクウェートへ侵攻したことを発端に、アメリカを中心とする多国籍軍とイラク軍が衝突した戦争である。この戦争は1991年2月まで続き、冷戦終結後初の大規模な国際紛争として知られている。イラクのサダム・フセイン政権がクウェートを占領したことで、国際社会は強く反発し、国連はイラクに対して撤退を要求した。しかしイラクがこれを無視したため、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクに対し軍事行動を開始した。(※1)
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湾岸戦争が起きた原因について、歴史的な背景や直接的な要因を見ていく。
イラクとクウェートの対立は、歴史的に根深い問題であり、石油資源や領土問題をめぐって長年の緊張関係が続いていた。イラクは第一次世界大戦後にイギリスの委任統治領となりその後に独立したため、その領土内には多くの異なる民族や宗教グループが存在していた。(※1)
湾岸戦争のきっかけは、イラクとクウェートの間で石油政策をめぐる対立が激化したことにある。イラクは石油収入に依存しており、原油価格の下落をクウェートとアラブ首長国連邦の過剰生産が原因だと非難した。またクウェートがイラク領内に軍事施設や石油施設を建設したと主張し、債務の帳消しを要求した。両国間の関係は悪化し、イラクは軍をクウェート国境付近に集結させた。エジプトやサウジアラビアが仲介を試みたが、8月2日未明にイラク軍がクウェートに侵攻し、暫定政府を設立後、両国の統合を宣言。イラク軍はサウジアラビア国境に向けて進軍を続け、地域の緊張が一気に高まった。(※2)
クウェートが石油の生産を増やした結果、国際市場での石油価格が下落した。イラク経済は石油に依存しており、このことがさらに対立を激化させ、当時のサダム・フセイン政権はクウェートに対して敵対的な態度を強めることとなった。さらにフセイン政権はクウェートがイラクの領土を不当に占領していると主張し、クウェート侵攻を正当化する口実とした。(※2)
イラクの財政状況は石油収入に大きく依存していたが、原油価格が1バレル18ドルから12ドルに急落したことで深刻な影響を受けた。収入源によりイラン・イラク戦争の戦後復興や債務返済に必要な財源の確保が難しくなり、価格下落の原因を、クウェートとアラブ首長国連邦がOPECの生産枠を超えて原油を過剰生産したことだと非難した。(※2)
イラクのクウェート侵攻に対して、国際社会は迅速に反応し、国連安全保障理事会は即座にイラクの撤退を要求する決議660を採択した。その後、経済制裁や外交的圧力が加えられたが、イラクは従わなかった。そのため最終的に、国連は多国籍軍の結成と軍事行動を容認する決議678を採択。湾岸戦争が本格的に始まるに至る。(※1)
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湾岸戦争は1990年8月2日のイラク軍のクウェート侵攻に始まり、翌年の1991年2月28日に終結した。主な流れは以下の通りである。
1990年8月2日、イラク軍はクウェートに対して突然の軍事侵攻を開始した。この侵攻によりクウェートは即座に占領され、サダム・フセインはクウェートをイラクの19番目の州として併合を宣言した。この行動は国際社会の大きな非難を浴び、湾岸戦争の幕開けとなった。(※2)
クウェート侵攻を受け、国連はイラクに対して即時撤退を要求する一連の制裁決議を採択した。この決議は「安保理決議」と呼ばれる。660決議ではイラク軍のクウェートからの即時無条件撤退を求め、661決議では加盟国のイラクへの輸出入を全面的に禁じた。イラクに対する全面的な経済制裁が課され、国際社会はイラクの孤立を図った。またアメリカを中心に約30カ国が参加する多国籍軍が編成され、戦争への準備が進められた。(※1、※3)
1991年1月17日、多国籍軍による「砂漠の嵐作戦」が開始された。この作戦は、空爆や短距離弾道ミサイルを主体とした大規模な軍事行動で、イラク軍の兵站や指揮系統、インフラに大打撃を与えることとなった。(※3、※4)
1991年2月24日、多国籍軍は地上戦を開始し、前述の作戦もあり100時間ほどでクウェートを解放した。(※4)イラク軍は次々と降伏し、同月の28日に終了した。
湾岸戦争は1991年2月28日に正式に終結し、イラクは多国籍軍に敗北を認めた。クウェートは解放され戦後の復興が始まったが、サダム・フセイン政権はその後も2003年までイラク国内で権力を維持し続けた。(※5)
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湾岸戦争において、多国籍軍はアメリカ合衆国を中心に結成された。アメリカ、イギリス、フランス、サウジアラビアなどの28カ国が参加し、国際協力のもとで軍事行動を展開。(※6)国連の安保理決議に基づき、国際社会はイラクに対して強い連帯を示した。
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湾岸戦争は、戦闘が終わった後も中東地域や国際社会に多大な影響を及ぼした。戦争による政治的不安定化や経済への影響、環境へのダメージ、そして兵士や民間人への被害は多岐にわたる。また戦争後の国際秩序やアメリカの影響力強化など、冷戦後の国際社会にも大きな変化があった。
湾岸戦争は、中東地域の政治に深刻な不安定化をもたらした。イラクのクウェート侵攻は、湾岸諸国に対するイラクの軍事的な脅威を顕在化させた。また国連の介入による戦争の集結とその後の経済制裁は、イラク国内の混乱を招くこととなる。さらに戦後における中東地域のパワーバランスが変化し、サウジアラビアなど湾岸諸国の軍備強化が進んだ。(※7)
湾岸戦争の終結により、クウェートは無事解放されたものの、戦争による被害は甚大であった。イラク軍は撤退時にクウェートの油田に火を放ち、クウェート国内は甚大な環境被害と経済損失を受けた。日本やドイツ、サウジアラビアは資金的な支援を通してクウェートの復興を支援した。(※8)
イラクの石油輸出停止やクウェート油田の破壊により、供給不安が広がった。その結果、一時的に石油価格が急騰し、世界経済に大きな影響を与えた。多くの国がエネルギー供給の安定性に対して危機感を持つこととなり、エネルギー政策の見直しが進められた。(※9)
戦争後も国連によるフセイン政権への経済制裁は継続され、イラク経済は崩壊寸前にまで追い込まれた。なかでも石油輸出の禁止はイラク経済に大きな打撃を与え、医薬品や食料品の不足によって国民生活が深刻な状況に陥った。(※1、※2)
湾岸戦争では、環境破壊も深刻な問題となった。イラク軍がクウェートから撤退する際、600以上の油田に火を放ち、これによって発生した油煙は中東全域に広がり、大気汚染や健康被害を引き起こした。さらに湾岸地域の海洋にも大量の原油が流出し、海洋汚染が深刻化。ペルシャ湾をはじめとした、周辺の生態系が大きなダメージを受けた。(※10)
湾岸戦争では、軍事的な衝突による兵士や民間人の犠牲も避けられなかった。バグダッドのフィルドス掩体壕を攻撃した際、誤って多くの民間人が犠牲となる事件が発生した。情報機関はこの施設をイラクの指揮所と誤認していたが、実際には市民の避難所としても利用されていた。攻撃により、200~300人の民間人が死亡したとされるが、正確な数は不明である。(※11)
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湾岸戦争は、中東地域のみならず、冷戦後の国際秩序やアメリカの国際的影響力にも重要な転機をもたらした。
湾岸戦争は、冷戦が終結した後に初めて起きた大規模な国際紛争であり、冷戦後の新たな国際秩序の形を決定づけた出来事である。米ソ対立に終止符が打たれたことにより、ソビエト連邦はアメリカと協調し、国連を通じた多国籍軍の形成を支持した。冷戦期には見られなかった米ソ協調が実現することで、国際社会が一つの目標に向かって団結する可能性を示した。(※12)
湾岸戦争は、アメリカの国際的な影響力を拡大させた。(※12)多国籍軍の主導を通じて軍事的優位性をもったアメリカは、同年のソ連の解散を受け世界唯一の超大国としての地位を確かなものとした。
湾岸戦争は、国連による軍事介入を正当化した最初の大規模な事例であった。国連安保理がイラクに対する武力行使を容認し、それに基づいて多国籍軍が行動を起こしたことは、紛争において国際社会が共同で対処するモデルケースとなり、紛争地域への介入や平和維持活動の正当化に影響を与えた。(※12)
中東地域におけるアメリカの軍事介入はイスラム過激派の反発を招き、後のテロリズムの台頭につながった。なかでもアルカイダのような過激派組織は、湾岸戦争後のアメリカの中東政策に強く反発し、1990年代から2000年代にかけてテロ攻撃を展開した。(※7)
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湾岸戦争後のイラクは、国際社会からの孤立と国内混乱が続いた。経済制裁や内乱の影響を受け、サダム・フセイン政権は厳しい統治を強いられたが、最終的にはイラク戦争へとつながる道筋をたどることとなった。
戦争後、国連による経済制裁はイラク経済を破綻寸前に追い込み、イラク国民の生活は急速に悪化した。国民の苦しみが増すなかで、サダム・フセイン政権は国際社会に対する反発を強め、強権的な統治を続けた。同時にイラク国内では反体制派の弾圧が強化され、クルド人やシーア派への弾圧も続いた。(※13)
経済制裁が長期間にわたり続いたことで、イラク国内では政治的な不安定が深まった。とくに南部のシーア派住民や北部のクルド人はフセイン政権に対して反乱を繰り返したが、これらの反乱はすべてフセイン政権によって武力で鎮圧された。しかし反発はなおも続き、長期にわたって国内情勢も混乱した。(※13)
フセイン政権は武装勢力を維持し、強硬な姿勢を崩さなかった。これに対して、アメリカのブッシュ政権はイラクが大量破壊兵器を保有していると主張し、さらに厳しい圧力をかけ始めた。(※3)最終的に、2003年にアメリカとイギリスを中心とする連合軍がイラクに侵攻し、イラク戦争が勃発することとなった。その結果サダム・フセイン政権を崩壊させ、イラクの政治体制を根本的に変えるきっかけとなったが、混乱と紛争の影響は続いている。(※5)
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湾岸戦争は、イラクのみならず中東や国際社会に強い影響を与えた。この戦争自体は短期間で終結し、クウェートは解放されたものの、その後の経済制裁やフセイン政権による独裁統治、テロリズムの台頭など多くの綻びを生んだ出来事となり、結果的に9.11テロと2003年のイラク戦争へとつながった。またイラクが弱体化したことで、さらに中東情勢は深刻な状況に陥る可能性もあり、解決への道が模索されている。(※14)
※1 湾岸戦争史-第1章 危機の勃発-イラクのクウェート侵攻-|防衛省防衛研究所
※2 湾岸危機と日本の外交|外務省
※3 イラクを巡る情勢の経緯|外務省
※4 陸上作戦から見た湾岸戦争|防衛省防衛研究所
※5 最近の内外情勢 2003年3月|公安調査庁
※6 湾岸戦争ポリティクス|防衛省防衛研究所
※7 サウジアラビア|公安調査庁
※8 湾岸危機への日本の対応|外務省
※9 二度の石油危機と日本経済の動向|内閣府
※10 D-4 ペルシャ湾岸の原油汚染等が海洋環境に及ぼす影響の評価に関する研究|環境省
※11 航空作戦から見た湾岸戦争|防衛省防衛研究所
※12 政治外交から見た湾岸戦争|防衛省防衛研究所
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