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ナチスドイツ軍によるユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」を後世に伝えるため、1944年に生まれたのが「ジェノサイド(genocide)」という言葉だ。この記事では、言葉が生まれた経緯や過去の歴史、現在直面している問題、ロシア軍によるウクライナ侵攻との関連について紹介する。
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ジェノサイドとは、1944年に初めて生まれた言葉である。法学者であったラファエル・レムキン氏が自身の著書のなかで初めて使った。その意味は「特定のグループ全体、もしくはその一部を破壊する目的で行われる集団殺害、およびそれに準ずる行為」のことである。以下の5つの行為が例に挙げられる。
・集団構成員を殺すこと
・集団構成員に対して肉体的または精神的な危害を加えること
・全部または一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に対して故意に命じること
・集団内における出生の防止を意図する措置を課すこと
・集団の児童を他の集団に強制的に移すこと
1944年にジェノサイドという言葉が生まれたのは、第二次世界大戦中に大量虐殺が行われたのがきっかけである。ポーランド系のユダヤ人であるレムキン氏は、ナチスドイツによって行われた大量虐殺を後世に伝えるため、ジェノサイドという新たな言葉をつくったのだ。(※1)
ジェノサイドの英語表記は「genocide」。ギリシャ語の「geno(人種や部族)」と、ラテン語の「cide(殺人)」を組み合わせてつくられた。
ジェノサイドを日本語に訳す際、単純に「大量殺害」と表記されがちである。しかし実際には、「特定の集団そのものの絶滅を目的にした大量殺害、迫害」がジェノサイドなのだ。その意味を正しく把握しておこう。
ホロコーストとは、第二次世界大戦下で行われたナチスドイツおよび、その協力者によるユダヤ人大量虐殺を指すホロコーストの犠牲になったユダヤ人は、約600万人にのぼると言われている。(※2)
1948年、国連によって採択されたのが「ジェノサイド罪の防止と処罰に関する条約」である。通称ジェノサイド条約と呼ばれ、2019年1月時点の批准国は世界150か国にのぼる。ところが2022年現在、日本は批准国に含まれていない。(※3)
日本が未加盟である理由は、国内法にある。条約を締結すると、日本国内でもジェノサイドに対する罰則規定を設け、大量虐殺が起こらない体制つくりを求められるのだ。しかし、法律化するための準備さえ整っていないなかで、国内法を制定するのは簡単ではない。こうした事情により、日本はいまだ加盟に慎重な姿勢を示している。
「人道に対する罪」とは、具体的には国家や集団が一般市民に対して行う殺害行為や迫害行為を指す。ジェノサイドと非常によく似た意味で使われる言葉である。両者の違いは、ジェノサイドは「集団」が対象であるのに対して、人道に対する罪の対象は「個人」である点だ。
また殺害の目的についても、両者の見解はやや異なっている。ジェノサイドでは「特定の集団の破壊や絶滅」が目的とされるが、人道に対する罪においては、このような目的意識は認定されない。
ジェノサイドをより深く知るには、過去の歴史から学ぶのが一番である。実は、法的にジェノサイドと認められた事例は決して多くはない。ジェノサイドと認められるには、集団を破壊する意図があったかどうかが重要な意味を持つ。意図は顕在化しないので簡単には認定できないという事情があるのだ。
では、法的にジェノサイドと認められている事例には、どういったものがあるのだろうか。4つ紹介する。
ジェノサイドという言葉をつくるきっかけとなった、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺である。ドイツ人を「優れた人種」、ユダヤ人を「劣った人種」とみなし、コミュニティーに対する脅威を取り除く名目で大量虐殺や迫害が行われた。
ユダヤ人以外にも一部の他民族者、共産主義者や社会主義者、同性愛者なども迫害を受けた。1930年代のヨーロッパには900万人以上のユダヤ人が暮らしていたが、ホロコーストにより、その6割以上が殺害されたと言われている。
ホロコーストは、1945年に行われたニュルンベルク国際軍事裁判にて「人道に対する罪」として告発された。1944年に生まれたばかりのジェノサイドという言葉は、当時まだ法律用語ではなかったためだ。
ただし、ホロコーストの意図をより正しく理解するため、起訴状においては「ジェノサイド」という言葉が使われている。このようにホロコーストは、ジェノサイドを理解するため、避けては通れない事例と言えるだろう。(※4)
1975年から1979年にかけて、カンボジアを支配したのが毛沢東主義勢力「クメール・ルージュ」であった。この勢力を指揮したのは、ポル・ポト元首相である。クメール・ルージュは新たな農業社会の実現を目指すと宣言した。そのために、自国民に対して農村部での強制労働を課したのだ。
厳しい労働環境や飢餓が原因で多くの人が亡くなり、さらに政権に異を唱える人々に対しては、拷問や処刑が行われた。亡くなった人の数は200~300万人、当時のカンボジア国民の3分の1が犠牲になったと言われている。
1979年の政権崩壊後、クメール・ルージュによる大量虐殺がジェノサイドに当たるか等の議論を含め、裁判が長く続いていた。そして2018年の判決にて、ようやく当時の最高幹部に対するジェノサイドの罪が認定された。(※5)
1991年、旧ユーゴスラビアの解体をきっかけに民族紛争が勃発した。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人、クロアチア人、ボスニア人が非常に激しい勢力争いを繰り広げ、多くの人々が犠牲となった。それぞれの勢力が、異なる民族を徹底的に排除しようとしたのである。いわゆる民族浄化だ。
内戦下において数多くの大量虐殺が起きたとされるが、1995年の「スレブレニツァの虐殺」のみがジェノサイドとして認定されている。スレブレニツァは、国連が認めた安全地帯であったが、セルビア人によるイスラム系住民の大量虐殺が行われてしまう。このわずかな期間に、8,000人以上の住民が殺害されたと言われている。(※6)
1994年には、アフリカ・ルワンダにおいてジェノサイドが発生している。大多数派のフツ族と少数派のツチ族が対立し、ツチ族の大量虐殺が行われたのだ。わずか100日ほどの間に、80万人以上のツチ族およびフツ族穏健派の人々が殺されていった。
当時のルワンダには、民族対立の危機を察知した国連から、平和維持軍が派遣されていた。しかし軍は激化した大量虐殺を止めることができず、惨劇はさらに広がっていったとされる。国連加盟国がルワンダで発生しているジェノサイドに興味・関心を抱かなかったことが虐殺を加速した、と見る向きもある。(※7)
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