ホロドモールとは、1932年から1933年にかけてウクライナで起きた人為的な大飢饉である。ウクライナでは、ホロドモールは当時のソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンによって計画された、ウクライナ人へのジェノサイドだという見方がされている。この悲劇は、なぜ起きてしまったのだろうか。
ELEMINIST Editor
エレミニスト編集部
日本をはじめ、世界中から厳選された最新のサステナブルな情報をエレミニスト独自の目線からお届けします。エシカル&ミニマルな暮らしと消費、サステナブルな生き方をガイドします。
わたしたちの買い物が未来をつくる|NOMAが「ソラルナオイル」を選ぶワケ
Photo by Mihály Köles on Unsplash
ホロドモールとは、1932〜1933年にかけてウクライナ人が住んでいた地域で起きた人為的な大飢饉である。当時のウクライナは、ヨシフ・スターリンが最高指導者を務める旧ソ連の統治下にあった。
この出来事は、飢饉を意味する「ホロド」と、疫病や苦死を表す「モール」を合わせて、「ホロドモール」と呼ばれている。オスマン帝国のアルメニア人虐殺や、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人に対するホロコーストなどと並んで、20世紀最大の悲劇のひとつとされている。
多くの犠牲者を生んだホロドモールは、ソ連が1929年から行なった農業集団化(コルホーズ)のシステムが原因とされている。ウクライナの自営農家(クラーク)の土地は没収され、農民は集団農場と国営農場に組織されていった。
収穫した穀物は政府に徴収され、外貨獲得の有効な手段として国外に輸出された。しかし、その輸出量は国内消費分が不足するほど過剰で、恵まれた土壌を持つウクライナでも、課せられた収穫高の達成は困難であった。
加えて天候不順も重なり、穀物の生産量は激減。食料が底を付き多くの農民が餓死する事態へとつながったが、スターリンは外貨獲得のために飢餓輸出を行い続けたのだ。
それでは、ホロモドールの原因となる出来事や経緯について、詳しく見ていきたい。
ロシアでは、1926年から穀物を中心とした農作物の不足が続いており、その打開策としてこのコルホーズのシステムが導入されていた。農場の共同保有や集団運営によって生産性を向上させることが目的だが、その一方で穀物徴発が復活。
そんな中スターリンは、工業の重工業化を推し進めるべく、1928年に国家成長計画「五ヶ年計画」を導入し、農業集団化はこの計画を成功に導く政策のひとつとして推進された。徴収した穀物を輸出して外貨に替え、工業化や諸外国への債務返済にあてるためである。当時のウクライナは、「ヨーロッパのパンかご」と呼ばれるほどの穀倉地帯で、1930年代に入る頃には、ウクライナの農民の大多数が集団農場で働かされていた。
しかし、集団化政策の強行は政府の思惑通りにはいかず、広範な不況も重なって減産を招く結果に。それでもソ連は、工業化を無理やり推し進めようとした。ウクライナのコルホーズに過剰な量の穀物徴収を課し、割高を提出すると農民には自分たちが食べる分の食料が残らなかった。彼らはろくに食事もできないまま、労働することを余儀なくされたのだ。
もちろん不満を表明する農民は続出したが、政府は制圧するために数々の条例を制定。農産物は人民に属するものとされ、パンの取り引きや調達不達成、落ち穂拾いまでもが、見つかると「人民の財産を収奪した」という罪状で罰せられた。都市部から共産党メンバーが見張りに送り込まれ、食料などを没収していったと言う。
さらに、1932年12月には国内パスポート制を導入。ウクライナの国境は封鎖され、農民は自由な出入りは許されず、村や集団農場に縛り付けられた。
イギリスなどヨーロッパの国々は、国際赤十字を通じて、ソ連政府に飢饉への対策を要請したが、「五ヶ年計画」の成功を宣伝していたソ連は、飢饉の存在を隠蔽して認めなかった。
しだいにウクライナではソ連に対する反感の機運が高まり、後に独ソ戦でドイツ軍が侵攻してきた際には、解放軍として大勢のウクライナ人がドイツ軍に志願兵し、共産党員引き渡しなどに加担した。
ELEMINIST Recommends