アウシュビッツ強制収容所で行われていたこととは 建設の背景や歴史を解説

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第二次世界大戦中にナチス政権によって建設された最大規模の強制収容所「アウシュビッツ強制収容所」。戦時中、ここでなにが行われていたのだろうか。建設された背景や歴史とともに解説する。

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2024.07.17

アウシュビッツ強制収容所とは

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アウシュビッツ強制収容所とは、第二次世界大戦中にナチス政権によって建設された最大規模の強制収容所だ。ポーランド南部にあるオシフィエンチム市に位置し、ドイツ語で「アウシュヴィッツ」と呼ばれることからその名がついている。当時このあたりはナチスドイツ政権によって占領されていた。

アウシュビッツ強制収容所は3つの大規模な強制収容所で構成され、火葬場やガス室、絶滅収容所、強制労働収容所、保管倉庫などがあった。

アウシュビッツ強制収容所が建設された背景

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なぜアウシュビッツ強制収容所が建設されたのか、その背景を解説する。

経済の混乱とナチスによる独裁国家の誕生

第一次世界大戦が終わった1920年代のドイツでは、敗戦による巨額の賠償金や産業地帯の取り上げ、さらに1929年に起きた世界恐慌が追い討ちをかけ、経済的な大打撃を受けていた。町には失業者が溢れ、社会的な混乱も起きていたなかで、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党が勢力を拡大していく。

ヒトラーは1921年にナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党首へと昇り詰め、1933年1月にドイツの首相となった。その後は急速にドイツを一党独裁国家にし、全権委任法を制定し自らに権力を集約させるとともに、大統領と首相の職権を統合した最高指導者「総統」の座につく。

ユダヤ人が憎しみの対象に

ヒトラーは、「ユダヤ人こそ我々の敵だ、不幸の原因だ」と叫び、人々の憎しみをあおった。ユダヤ人が人々の社会や経済へのつのる不満の標的とされた背景には、ヨーロッパでの古くからのユダヤ人差別が根本にある。ヨーロッパで大半を占めるキリスト教徒にとってイエス・キリストは救世主であり、少数派のユダヤ教徒はそれを認めない人々。忌み嫌われ、土地の所有や職人の組合(ギルド)への加入が認められないといった差別や迫害を受けてきた。

フランス革命以降、ユダヤ人の市民権が認められたが、"優れた人種"であるアーリア人に対してユダヤ人は"劣った人種"であるとみなす歪んだ思想が蔓延していった。こういったヨーロッパの人々に深く根付いた反ユダヤへの感情をヒトラーが政治的に利用したのだ。(※1)

アウシュビッツ強制収容所の建設

ナチス政権の誕生後、1940年からナチスドイツ軍による「アウシュヴィッツ第1強制収容所(基幹収容所)」の建設がはじまる。1940年6月には、ポーランド人政治犯を乗せた最初の移送列車が到着した。その後、囚人数の増加とともに収容所は拡張されていき、1941年10月には、オシフィエンチム市の郊外約3kmに位置するブジェジンカ村に絶滅収容所「アウシュヴィッツ第2強制収容所ビルケナウ」の建設が始まる。

アウシュヴィッツ強制収容所は、建設当初はポーランド人を中心とした政治犯を収容し、反対勢力を抑え込むことを目的としていた。その後、捕虜になったソ連兵、ロマ、その他の国からの収容者が増えていく。1942年以降はヒトラーによるユダヤ系市民を大量虐殺するための場所となっていった。(※2)

ゲットーやその他強制収容所の建設も

第二次世界大戦中には、ユダヤ人の強制居住区「ゲットー」やリトアニアやチェコ、ポーランドといったドイツの周辺国にも強制収容所がつくられた。「ゲットー」には外に出られないよう周囲に高い壁がつくられ、ほとんどのユダヤ人が強制的に住まわされた。

1942年にヒトラーとナチス党の幹部が行ったヴァンセー会議で「欧州のユダヤ人を絶滅させる」というユダヤ人の最終的解決が採択・合意される。これによりユダヤ人への迫害が本格化し、「ゲットー」に住む多くのユダヤ人がアウシュビッツ強制収容所に送り込まれることとなった。1942年春からは実際に絶滅計画が開始された。

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アウシュビッツ強制収容所の実態

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アウシュビッツ強制収容所では、どのようなことが行われていたのか解説する。

強制労働

収容された人たちは「労働者」「人体実験の検体」「価値なし」の3つに選別された。労働者に選別された人は、施設内にある工場や農場で強制的に働かされていた。女性のなかには、囚人の持ち物を仕分けする労働をしていた人もいた。労働は過酷なもので、食事も満足に与えられていなかったこともあり、長時間労働により過労で命を落とす人もいた。また、ナチスドイツ軍による大量虐殺に加担させられることもあった。

虐殺

アウシュビッツ収容所では、大量虐殺が行われていた。収容所建設当初は銃によって射殺していたが、収容したユダヤ人の数が増えたことから大規模なガス室を設置し、そこで毒ガスによる大量虐殺を行った。

前述した選別で「価値なし」とされた人たちがターゲットとなり、シャワー室に見立てたガス室に入れられると、天井からツィクロンBと呼ばれるネズミの駆除に使用される青酸殺虫剤が投入され、命を落としていった。

人体実験

選別で「人体実験の検体」となった人は、人体実験の被験者として利用された。男女の断種実験や新薬開発のための実験、身体へのX線照射などの非人道的な実験が行われた。実験台にされた人の多くは、合併症を発症して苦しみ命を落とした。人体実験を受けた人のなかには生存者もいたが、障害や後遺症に悩まされたといわれている。(※3)

第二次世界大戦後には、この非人道的な人体実験が世界中に知られることとなり批判の的となった。

アウシュビッツ強制収容所の歴史

State Museum of Auschwitz-Birkenau

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ここでは、アウシュビッツ強制収容所の歴史を解説していこう。

アウシュビッツ強制収容所の建設

アウシュビッツ強制収容所は、3つの大規模な強制収容所で構成されている。1940年に建設された第1強制収容所は、ポーランド軍の兵舎を収容所に転化したものだった。1941年には第2強制収容所が、1942年には第3強制収容所が建設された。このほかに副収容所や、強制労働者を働かせるための工場や農地もあり、巨大な施設になっていった。

ユダヤ人たちの強制収容

アウシュビッツ強制収容所が建設された当初は、おもにポーランド人の政治犯を収容していたが、1942年にヒトラーとナチス党の幹部が行ったヴァンセー会議で「欧州のユダヤ人を絶滅させる」というユダヤ人の最終的解決が採択・合意され、多くのユダヤ人がアウシュビッツ強制収容所に送り込まれた。収容されたユダヤ人たちは、過酷な強制労働、虐殺、人体実験などを受け、多くの人が命を落としていった。

第二次世界大戦の収束とソ連軍による解放

1944年に第二次世界大戦が収束へ向かうと、ナチス党はアウシュビッツで行った残虐な行為やその証拠を隠滅するために、ガス室や死体焼却場を徹底的に破壊し、重要書類の処分を行い、歩ける収容者をドイツ方面へと連行していった。1945年にソ連軍がアウシュビッツ収容所へ突入し、収容者は解放された。(※2)

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アウシュビッツ強制収容所の現在

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アウシュビッツ強制収容所は、現在、国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館として保存されている。博物館内にはユダヤ人などの遺品、鞄、靴、眼鏡などの没収された品物、犠牲者の毛髪、当時の写真などが展示されている。また保存されている資料をもとに、研究や調査、建物の修復、啓発活動なども行っている。なお1979年には「負の遺産」として世界遺産に登録された。(※2)

アウシュビッツ強制収容所に収容された人の数は、1940年から1945年の間に少なくとも130万人いたといわれており、そのうち110万人が犠牲者となった(※4)。ソ連軍により開放され、生き残った人たちはわずか7000人程度だったとされている(※5)。生き残った人たちは開放されたが、心に負ったトラウマにより、以前に住んでいた場所に戻ることをためらう人も少なくなかった。多くの人々は、イスラエルやアメリカなどへ移住している。

負の遺産から学びを得て、平和な世界に

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Photo by Karsten Winegeart on Unsplash

アウシュビッツ強制収容所では、強制労働、大量虐殺、人体実験など、残虐非道な行為が行われて多くの命が失われた。このような歴史を繰り返さないためにも、負の遺産から多くのことを学び、平和な世界をつくっていく必要がある。

※掲載している情報は、2024年7月17日時点のものです。

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