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ルワンダをはじめとするアフリカに住むフツ族とツチ族。実はこの二つの民族に人種的な違いはない。だが、かつてお互いに差別意識をもち、ルワンダ内戦や虐殺などの凄惨な歴史を経験している。この記事では、同じ文化をもつ二つの民族が争いに至った理由と歴史について解説する。
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1994年、アフリカのルワンダでフツ族の民兵によって、ツチ族が大量虐殺されるというアフリカの歴史上で最悪といえる事態が起きた。だが、フツ族とツチ族の間には人種的な違いはなく、宗教や言語、住んでいる場所も同じである。
両民族の違いは、もともと遊牧民系で支配者階級であったツチと、農民系で被支配階級にあたるフツであることだ。例えるなら、日本でいう武士と農民との関係に近いものだ。
そのため、以前はお互いに役割を分担して社会を形成しており、滅ぼしあうことは無かった。にもかかわらず、なぜこのような自体にまで発展したのだろうか。それには、ドイツ、ベルギーの植民地政策が関係している。
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1990年から、ルワンダ大虐殺が起きた1994年にかけて、ルワンダ国内ではツチ族とフツ族による内戦が続いた。1993年8月にアルーシャ協定と呼ばれる和平協定が結ばれたものの、フツ急進派による政情は不安定な状況が続き、1994年4月6日にフツ系であったハビャリマナ大統領が暗殺されたことで、緊張状態にあった両民族の関係はさらに悪化することとなった。
この出来事をきっかけに、暴徒と化したフツ族の民兵によりツチ族の虐殺が始まり、しかもその矛先はツチ族だけではなくフツ族の穏健派にまでおよんだのである。
この大量虐殺(ジェノサイド)による犠牲者は、一説には100万人にものぼるといわれている。ツチ族の多くが虐殺されるか周辺国へ難民として逃れていった。
アフリカの国々は欧米列強の植民地支配の影響を強く受け、ルワンダもその運命を大きく左右され内戦への道を進んでいく。
ルワンダは15世紀ごろにツチ族系の王によって建国され、先にも触れたように、その頃はツチ族とフツ族に身分の違いこそあれど共生関係にあった。
しかし、19世紀末になるとヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が進み、ルワンダはドイツの保護領となったのち、第一次世界大戦が終結するとベルギーによる委任統治が行われ、実質的にベルギーの植民地となった。
ツチ族とフツ族の対立が始まったのはこの頃からで、ベルギーはツチ族とフツ族の関係性を踏襲し、これまで以上にツチ族の立場を高める政策を行った。比較的身長が高く細みであったツチ族と、身長が低く薄めの肌をもつフツ族を明確にわけIDカードによって管理し、職業や教育に関してもツチ族を優遇する統治を行ったのだ。少数派のツチ族を重用することで、人口の大半を占めていたフツ族を効率的に統治した一方で、対立構造をつくり出したのである。
第二次世界大戦が終了すると、アフリカの多くの国は、国際連合の監視の元で信託統治が行われ、ルワンダも独立に向けて道を進むこととなる。ただし、これまで通りベルギーの管理下で王政による統治が行われたため、フツ族の不満はさらに蓄積していくこととなり、1959年に当時のルワンダ王が継承者を指名しないまま急死すると政情が一気に悪化した。
翌年の1960年には、ツチ族たちは国外に逃れ、1961年に王政に反対していた一部のツチ族とフツ族が共和国を宣言。多数派であったフツ族からルワンダ初代大統領のカイバンダが選出され、1962年にベルギーから独立を果たしたのである。
しかし、今度は少数派であるツチ族が政治から排斥されることとなり、新たな差別意識を産み、さらには国外に亡命したツチ族たちは亡命先のウガンダでも差別を受けることとなる。
その後、1973年にルワンダでクーデターが起こり、フツ系のジュベナール・ハビャリマナが政権を握ることとなる。ハビャリマナはツチ族とフツ族の融和政策を進め、政治の主導権はフツ族にあった一方で、ツチ族の経済への関与を奨励しコーヒーの輸出国としてルワンダを大きく発展させた。
ただ、この間もツチ族に対する差別や暴力は断続的に続き、多くのツチ族はルワンダからの亡命を余儀なくされる状況が続いていたのである。
1987年に、ツチ族を中心とした「ルワンダ愛国戦線」が組織された。これにより反政府運動が活発化されることとなった。この組織がルワンダ奪還を目指し、1990年10月から、ウガンダよりルワンダに侵攻を開始。ルワンダ政権との軍事衝突に発展する。
3年もの期間にわたり断続的に戦闘が繰り返され、1993年8月にアルーシャ協定が締結され一旦は停戦したものの、1994年にハビャリマナ大統領の乗った飛行機が何者かによって撃墜されたことを発端にフツ族過激派によるルワンダ虐殺(ジェノサイド)が始まったのである。
フツ族によるツチ族の虐殺の背景には、先ほど触れた1960年に起こったフツ族とツチ族の立場の逆転劇に端を発した「フツ・パワー」と呼ばれるイデオロギーが関係している。フツ・パワーとは、「ルワンダはフツ族によってのみ構成されるべき」というフツ族過激派の提起する考え方で、虐殺においてはツチ族のみならずフツ族穏健派もターゲットにされた。ルワンダ虐殺は、ルワンダ愛国戦線がルワンダ政権を撃破するまで約100日間も継続された。
これによって、ルワンダ内戦は終結するものの、この紛争は他国にも影響を与えることとなる。1993年にはルワンダの南隣に位置するブルンジでフツ系のンダダイエ大統領が暗殺されることで、2008年まで続くブルンジ内戦に発展。さらにルワンダ内戦から国外に逃げ延びたフツ族とツチ族はアフリカ各地で対立し、アフリカ大戦とも呼ばれるコンゴ戦争を引き起こすこととなった。
また、虐殺が起こった翌年1995年の統計では、ルワンダの人口は虐殺の被害者と、他国に亡命した人々を含め170万人減少したといわれている。
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ルワンダ内戦、コンゴ戦争を経て、現在ルワンダはアフリカで治安のよい国(※1)といわれている。では、なぜ虐殺という凄惨な出来事を経験したにもかかわらず、現在は比較的安定した治安を維持できているのであろうか?
1994年にルワンダ愛国戦線が政権を握るとまず、出身部族が記されていた身分証の廃止を行った。1999年には国民和解委員会および国民人権委員会が設置され、ツチ族とフツ族の共存に向けてさまざまな政策が行われた。なかでも大きな役割を果たしたのは、「ガチャチャ裁判」と呼ばれる地域の共同体が主体となって行う草の根裁判制度だ。
いまでも内戦の爪痕は大きく、体や心に大きな傷をおった人々で溢れている。しかし、同じ虐殺という悲劇を繰り返さないよう、ツチ族とフツ族の歩み寄りは現在も続いている。
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ルワンダ内戦や虐殺についてもっと詳しく知りたいという人には映画『ホテル・ルワンダ』の視聴を薦めたい。『ホテル・ルワンダ』は、ルワンダ内戦やその後の虐殺をテーマにつくられた映画だ。
元ホテルの支配人ポール・ルセサバギナはフツ族であったが、自身のホテルに多くの人々を匿い、1000名以上もの難民の命と自らの道徳心を守り抜いたという実話がベースになっている。
映画を通じて、ツチ族とフツ族の対立構造や虐殺に至った詳細な出来事を学べ、個人の行動が社会やコミュニティに与える影響、社会的責任の重要性を訴えかけるものとなっている。
虐殺という重いテーマを扱っているがゆえ、日本では一度公開が見送られたものの、映画作品としても世界的に評価されている。
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