「一年後の桜」に希望を抱いて 写真家・川廷昌弘さんが語る、震災の記憶

地球の未来に思いを馳せ、環境保全やエコ活動に取り組むサステナブルな人がいる。地球の危機を自分ごととして捉える彼ら彼女らは、どのようにして行動を起こす人となったのか。ある一枚の写真で人生が変わったという人物に焦点を当てる連載。初回は、博報堂 川廷昌弘さんに話を聞いた。

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2020.05.28

博報堂DYホールディングスのCSRグループ推進担当部長を務める川廷昌弘さん(56歳)は、SDGs(持続可能な開発目標)普及の第一人者として知られる人物だ。

テレビ番組「情熱大陸」の立ち上げに携わり、温室効果ガス抑制を目的とした「チーム・マイナス6%」では、メディアコンテンツの統括責任者を務めてきた。

イベントや講演などで全国を飛び回る日々のなか、ライフワークとして続けているのが写真だ。1990年からはじめた個展は15回を数え、これまでに3冊の写真集も出版している。

川廷さんの作品には、人物をはじめ植物や木々、海を写したものが多い。「美しい」「かっこいい」と思わせるうまさはもちろんだが、自然の生命力が肉薄してくるような力強さを感じさせる。

撮影する写真と、彼が「人生そのもの」だと語るSDGsや環境保全には、なにか強い結びつきがあるように思える。

川廷さんはどのような道を歩み、「SDGsの普及」と「写真家」という二足のわらじを履くようになったのか、そして、いまの価値観に影響を与えた一枚の写真とは。本人に話を聞いた。

風景を持ち帰りたい バイク乗りが写真に魅入られた

兵庫県芦屋市出身の川廷さんは、大学卒業を機に上京。1986年、博報堂に入社した。新入社員時代はとてもハードワークで、気分転換にとバイクのツーリングをはじめた。

「バイク乗りは灯台に向かう習性があるんですよ。ぼくもよく、南房総にある白浜の灯台までバイクを走らせていました。そこは真冬に行っても、一面の花畑があって。12月には菜の花、1月はストック、春になるとポピーが咲く。見るだけじゃなくて、この美しい風景をお土産に持って帰りたい。そう思ったのが、写真をはじめたきっかけでした」

テスト

写真は、独学で腕を磨いた。きれいに撮れるようになると、活動資金を集めるため、南房総のペンションやホテルに自作のポストカードを売り歩くようになった。ほどなくして、地元のエリア誌から表紙撮影の仕事が舞い込んだ。

「これは、写真家として生きていけるんじゃないかと。社会人3年目にして、自分に大きく期待していました」

「君は何者なのか?」

入社から5年が経ち、関西支社への転勤を命じられた。仕事でおつき合いのあった著名なデザイナーの薦めもあって、大阪写真専門学校の夜間部への入学を決めた。プロから写真を学ぶためだった。

忙しい合間をぬって、週に3回は必ず授業に出席した。「楽しいハードワークだった」と回想する川廷さんだが、入学早々、写真科の教諭から予期せぬ質問を投げかけられた。

「『君は何者なのか?』と聞かれたんです。ぼくは『会社に勤めながらプロの写真家を目指す男です』とだけ答えると、『そんなことしか言えないんだったら写真は撮れない』と突き返された。恥ずかしかったし、悔しかったですね。

でもそこで、写真とは人格そのものだと思えました。哲学があってはじめて、人の心に訴えかけられる写真が撮れるんだと。自分探しをするしかないと思いました。そこで、故郷の芦屋をテーマに決めて、自分の少年時代を思い返しながら、路上で出会う少年たちを撮りはじめました」

阪神淡路大震災で被災 タンスの下敷きに

専門学校を卒業した翌年には、撮りためた作品で東京と大阪で個展を開催した。写真を通した自分探しを故郷で続けようとした数ヶ月後の1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生する。

初めて経験した震度7の地震。川廷さんはタンスの下敷きとなったが無事だった。しかし、昨日まであった芦屋の町は破壊された。

少年の町の風景を失ったーー。途方もない喪失感に打ちのめされた川廷さんだったが、写真とは何かの自問自答をしながら、被災した当事者として「写真を撮り続けなければいけない」という思いを抱いた。

「家から徒歩圏内の変わり果てた町を撮っていました。すると突然、後ろからバーンと頭を殴られ『お前が撮っているのはワシの家や、フィルム抜け!』と。自分も被災したと言っても状況が違いすぎます。お詫びを言って、その場を立ち去るしかありませんでした」

写真家として自分が表現したことで人の心に届けたいのに、自分はどうするべきなのだろう。無力感が募る一方だった。

“かつて”少年の町だった場所をあてもなく撮り歩く日々。そうしたなかでも、いつも行き着いてしまうのは、少年の頃によく遊んだ芦屋川のほとりある公園だった。

「風に揺れる松林のやさしい音を聴きたくて、足が向いてしまうんだなあ。ふと、そう気がついたんです。人間は自然の一部として生きている。こうやって自然に身を置くことで、精神が立て直されてくんだ。そう思えました」

気づくと川廷さんは、松の根の写真を撮っていた。

テスト

この写真が、川廷さんの人生を変えた。「自分たちの暮らしは自然とともにあるんだ」と強く実感した瞬間だった。


私たちの暮らしも心も、松によって守られている

川廷さんは、日本人と松の関係性をこう話す。

「日本には『白砂青松(はくさせいしょう)』という言葉があります。白い砂と青々とした松でつくられる美しい海岸風景を表したものです。あれは、自然にできたものではなく、人間が暮らしていくために必要に迫られて、自然の特性から学んでつくった風景です。

2011年に発生した東日本大震災以前、宮城平野には広大な松林がありました。これは400年以上も昔、仙台藩初代藩主の伊達政宗が推進した「潮除須賀松林」という事業でした。個人的に復興支援で訪れた名取市では、松ぼっくりを拾って苗を育て植林している大橋信彦さんと仲良くなって、松のある風景が暮らしに溶け込んでいる人が多いと実感しました。

多くの人は『松林がない生活は不安だ』と話していました。防潮堤ができるのは仕方がないが松林は必要だ。故郷の芦屋も、いま暮らしている湘南にも松林がある。僕たちの暮らしも、心も、松林によって守られている。僕が松林の音を聴いて癒されていたのは、当たり前だったのかもしれないと、いまになって思います」

一年後の桜

松の根の写真を撮ったことで、一気に視界が開けた川廷さん。次に注目したのは、桜の木だった。

「芦屋ってお屋敷がたくさんあるので、大きくてきれいな桜が咲くんですよ。でも震災の年は桜が咲いたのを記憶していなかった。被災地に住む人の共通の思いとして、来年咲く桜は見たいのではないかなと思ったんです。それで『一年後の桜』というタイトルを思いついて、写真を撮ることにしました」

一年後の桜

実際に撮ったのが、この写真だ。かつてマンションがあったという更地に咲く桜。根を剥き出しにしながら、天に向かって枝を伸ばしている。“二度と見たくない風景だけど、二度と見れない桜”だ。こうして町中の桜を訪ね撮り歩いた。

「うつむいて瓦礫を撮るんじゃなくて、桜を見上げるように町を見ていこう。桜のおかげで、復興していく故郷を撮るようになっていったんですよ。

阪神淡路大震災から10年後の2005年、『一年後の桜』という写真集を出版しました。すべての新聞社が記事にしてくれました。大阪でも個展を開催できたりと、ようやく写真家として一歩を踏み出せたかなと思います」

松の根の写真を撮って意識が変わり、一年後の桜につながった。この二枚が、後にSDGsや地球環境を語る人間を生み出したのだった。

「いま隣にある危機」の意味

近所では多くの方が亡くなり、自分は「生かされた」。そして、傷つき思い悩む心を自然が癒してくれた。その時には気がつかなかったが、川廷さんにとっては大きな原体験だった。しかしそれがあったからこそ、気候変動や環境問題も身近なものとして捉えやすくなった。

「いま世界中でコロナウイルスが猛威をふるっています。じわじわと命に関わる事態が迫ってきます。震災は数秒で命に関わる事態になります。ニュアンスは違いますが、いずれも人々が力を合わせて命をどう守るかを考えるということで、通ずるところがあるんじゃないかなと思うんです」

川廷さんはそれを、「いま隣にある危機」と表現する。

「『自分たちが安心安全に暮らせる生活』とは何か、社会的な危機を感じて対話できるような社会になってきている。僕たちがクールビズに取り組んだのは15年前でした。いまではメディアや広告会社だけでなく、むしろ一般の人たちのSNSなどを通じたメッセージのほうがリアルで刺激が大きく感じることもある時代になってきています。

より多くの人の視点や気づきから多様な言葉で伝えていくことで、危機感が自分ごと化しやすくなってきていると思います」

サステナビリティとは、子どもたちに対する責任

サステナブルを自分ごととして捉えるのは簡単なことではない。せわしなく働く現代人にとって、いまを生きるのに精一杯なのが正直なところだろう。

川廷さんの心を突き動す原動力とはなにか、こんな言葉を引用して説明してくれた。

「ネイティブアメリカンに伝わる言葉に『この自然は、未来の子どもたちからの預かり物』という有名なフレーズがあります。私たちがこうして生かされているのは、未来からの預かり物で、いずれ未来へ返さないといけない。

僕たちに見えている未来は、赤ちゃんや子どもたちですね。そんな次世代に対する責任が、いま社会を動かしている者の責任だと思うんですよ。抽象的になってしまいますが、僕にとってのサステナブルとは、“子どもたちの未来”です」

東日本大震災では津波が町をさらった。松林が豊かにあった土地、いまは荒涼とした土地に、大橋さんたちが一生懸命松の苗を育てている姿が目に焼きついている。彼らが生きている間には見ることができない風景だが、未来を生きる子どもたちの暮らしを守る松林をつくっているのだ。

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取材の最後に「いまの川廷さんは何者ですか?」と尋ねてみた。すると、すがすがしい表情でこう答えてくれた。

「『人の記憶に残る風景や、地域の資産を撮る写真家』です。そこに暮らす人ですら見逃してしまいそうな、地域のルーツや原点を写真で表現し、感じてもらう。そんな作品を撮っています」

川廷さんは業務の合間を見つけて今日もカメラのシャッターを切る。ファインダー越しに見える、未来の地球の姿を切り取るために。

取材・文/山川俊行(ELEMINIST編集部)

プロフィール

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川廷昌弘氏/株式会社博報堂DYホールディングス グループ広報・IR室CSRグループ推進担当部長

兵庫県芦屋市生まれ。1986年博報堂入社。テレビ番組「情熱大陸」の立ち上げに関わり、地球温暖化防止国民運動「チーム・マイナス6%」では、メディアコンテンツの統括責任者を務める。現在はSDGsの業務に専従。外務省や内閣府のSDGs関連事業などを受託。環境省SDGsステークホルダーズ・ミーティング構成員。グローバル・コンパクト・ネットワーク・ジャパンSDGsタスクフォース・リーダー。神奈川県顧問(SDGs推進担当)。茅ヶ崎市SDGs推進アドバイザーなど委嘱多数。また、公益社団法人日本写真家協会の会員として「地域の大切な資産、守りたい情景、記憶の風景を撮る」をテーマに活動する写真家でもある。

※掲載している情報は、2020年5月28日時点のものです。

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