旧優生保護法とは 被害や問題点、裁判についてわかりやすく解説

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Photo by Ahmed Al Munther

1948年に制定され、48年間施行されていた「優生保護法」。1996年に改正され、名称も変更になった法律だが、被害者による裁判がいまも続いている。本記事では、旧優生保護法とはどのような法律で、どんな問題があったのか、またどのような被害を生んだのかについてみていく。

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2024.08.30
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旧優生保護法とは

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戦後間もない1948年に制定され、48年間施行されていた「優生保護法」。1996年に改正されて、現在は「母体保護法」となった法律だ。

旧優生保護法の第一条には、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命・健康を保護することを目的とする」と定められている。ここでいう「不良な子孫」とは“病気や障害をもつ子ども”を指しており、簡単にいうと、社会のためにそうした子どもが産まれてこない方がいい、という考え方に基づいた法律であった。

旧優生保護法の被害や問題点

障がい者差別につながる、第一条の「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止」は、1996年の改正のタイミングで削除されたが、それまでの48年間、多くの被害を生んできた。ここでは被害や問題点、被害者数について、解説していく。

強制不妊手術の拡大

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Photo by JAFAR AHMED on Unsplash

旧優生保護法制定当初は、「病気や障害がある子どもが生まれる事を防ぐ」ことを目的としていたため、不妊手術の対象は基本的に遺伝するおそれのある病気や障害に限られてた。

しかし1952年に、「遺伝性ではない精神疾患や知的障害がある場合も、本人の同意なく不妊手術ができる」という改正がされたことで、「本人の障害」も不妊手術の対象となったのだ。

さらに、1953年に厚生省(当時)が出した通知では、強制的な不妊手術にあたって「身体の拘束、麻酔薬施用又は欺罔等の手段を用いることも許される」と記載され、障害のある人が不妊手術に同意しない場合、身体を縛ったり麻酔薬を使ったり、だましたりしてもよい、としていた。

このような国の後押しもあり、強制的な不妊手術は拡大。国の調査でわかっているだけでも、強制不妊手術の被害者は約1万6500人に上るとされている(※1)。

法律から逸脱した不妊手術

強制的な不妊手術が拡大するにつれて、法律から逸脱した不妊手術がおこなわれていたことも、旧優生保護法の問題点として挙げられる。

法律に定められていた「生殖腺を除去しない方法」を逸脱し、子宮の摘出や放射線の照射、睾丸の摘出といった心身への影響やダメージが大きい方法までおこなわれるようになっていたのだ。被害を受けた人々は、精神的苦痛に加え、ホルモンバランスの異常など、長年にわたって後遺症に苦しんできた。

旧優生保護法の被害者数

先述の通り、国の調査によると、約1万6,500人が強制不妊手術を受けさせられたとされており、さらに本人の同意の下に不妊手術を受けた人は約8,500人とされている。しかし、実際には障がい者の立場が弱いために、同意せざるを得なかったケースも裁判では認められており、強制不妊手術の被害者は、もっと多いとされている。(※1)手術件数は1950年代が最も多く、手術を受けた全体の約4分の3は女性だ。(※2)

強制不妊手術の被害を含め、旧優生保護法による被害は全国で約8万4,000人にもおよぶとされており(※3)、差別的な政策によって、重大な人権侵害を多数引き起こしたことは誰の目にも明らかだ。

旧優生保護法の歴史

なぜ、このような差別的な法律が制定されてしまったのだろうか。ここからは、制定から撤廃までの旧優生保護法の歴史について解説していく。

敗戦後の人口急増

旧優生保護法の制定には、戦後の人口急増が背景にある。敗戦以降、外地からの引き上げや出生数の増加によって国内の人口が急増。

食糧不足問題が深刻になっており、人口を抑制することが国としての課題となっていたのだ。

1948年 旧優生保護法制定

法律のイメージ

Photo by Tingey Injury Law Firm on Unsplash

そこで国は、明治以来「堕胎罪」によって禁止してきた中絶を、特定のケースに当てはまる場合のみ合法化。「妊娠・出産を繰り返すことで母体の健康を損ねる場合」や、「暴行されて妊娠した場合」などは、「人工妊娠中絶を行うことができる」と定めた。

しかし一方で、「自覚のない人や知的な障害のある人は中絶をおこなわないため、病気や障害のある人の割合が増えてしまうのではないか」と考える人々が現れる。この考えが、「不良な子孫の出生を防止する」という旧優生保護法の目的につながっていくこととなり、1948年、旧優生保護法が制定された。

1996年 旧優生保護法改正 母体保護法へ

多くの被害を生んだ旧優生保護法は1996年にようやく改正され、名称は「母体保護法」へと変わった。

内容については、旧優生保護法の第一条が「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」としていたのに対し、母体保護法の第一条では「不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により、母性の生命健康を保護することを目的とする」と改められている(※4)。

障がい者差別につながる「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止」が削除され、母体の健康と生命の保護を主な目的とする法律へと変わったのだ。

旧優生保護法をめぐる裁判

裁判所前のイメージ

Photo by Colin Lloyd on Unsplash

1996年に改正されたものの、施行されていた間の実態調査や補償の議論などはおこなわれず、被害を受けた人の問題は放置されてきた。改正から30年近く経っても、旧優生保護法によって被害を受けた方の裁判が続いているのだ。

旧優生保護法のもとで不妊手術を強制された人たちが国に賠償を求める裁判は、知的障害がある宮城県の女性が6年前に仙台地方裁判所に初めて起こし、その後全国に広がった。2024年3月までに、39人の被害者が、国に謝罪と賠償を求める裁判を提訴している。

2024年7月3日には、札幌や仙台、東京などで起こされた5つの裁判の判決が最高裁判所大法廷で言い渡され、裁判長は「旧優生保護法の立法目的は当時の社会状況を考えても正当とはいえない。生殖能力の喪失という重大な犠牲を求めるもので個人の尊厳と人格の尊重の精神に著しく反し、憲法13条に違反する」と指摘。また、障害のある人などに対する差別的な取り扱いで、法の下の平等を定めた憲法14条にも違反するとして、「旧優生保護法は憲法違反だ」とする初めての判断を示した。

この裁判で、高裁で勝訴した4件について国に賠償を命じる判決を言い渡し、原告の勝訴が確定。宮城県の原告が起こした裁判については、訴えを退けた2審判決を取り消し、仙台高等裁判所での審理やり直しを命じたのであった(※5)。

第二の旧優生保護法を生み出さないために

日本国憲法の「法の下の平等」に反する法律であった、旧優生保護法。SDGsや多様性といった言葉が広く知られている現代の価値観で考えると、非常に差別的であり、どのような理由があっても容認できるものではない。にも関わらず、実際に旧優生保護法は48年もの間施行された。旧優生保護法は改正され、母体保護法となったが、多くの人を苦しめてきたことを忘れてはいけない。

世界の状況は日々変わり、「正義」「正解」とされることも、少しずつ変化していくだろう。しかしどんなときでも、法律で定められているような“当たり前”とされることでさえ、誰かを傷つけ、希望や命を奪いかねないことを忘れてはいけないのだ。第二の旧優生保護法を生み出さないためにも、さまざまなことを自分ごととして捉え、ときには当たり前を疑うことも大切なのだ。

※掲載している情報は、2024年8月30日時点のものです。

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