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「#StopAsianHate」というハッシュタグがSNSを席巻している。アメリカで増加中のアジア人へのヘイトクライムをきっかけとした反差別運動だ。なぜ今この運動が重要な意味を持つのか?我々はどのように連帯できるのだろうか?文筆家の佐久間裕美子にエッセイを寄稿してもらった。
佐久間裕美子
ライター
慶應義塾大学卒業、イェール大学修士過程修了。1996年に渡米し、1998年からニューヨーク在住。出版社、通信社などを経て2003年に独立。 カルチャー、ファッション、政治、社会問題など幅…
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2021年3月16日、アメリカはジョージア州アトランタ、およびアトランタ郊外の都市で、白人の男性が、立て続けにマッサージパーラーを襲撃し、その日購入した銃で、アジア人女性6人を含む8人を射殺した。
2020年にコロナウイルス感染症(COVID-19)が世界を覆うと、トランプ大統領はこれを「武漢ウィルス」、「チャイナウイルス」と呼び始めた。自分の不手際を棚に上げるためのレトリックとはいえ、中国の責任を追及する声が上がるとともに、アジア系アメリカ人を含むアジア人に対する嫌がらせやヘイトクライムの数がうなぎ登りに増えていた。
それまでもアジア人、とくに老人が暴行を受ける事件が続いていたが、ジョージアの事件では、女性、それもマッサージに従事する女性が標的にされたことに打ちのめされた。さらには犯人が動機を「セックス中毒で、誘惑を断ち切るために」と説明して、即座に女性たちがセックスワーカーだったかが取りざたされたこと、事件直後に行われた記者会見で、白人の保安官が犯人は「悪い1日を送っていてカッとした」と言い訳を与えるような説明をしたことも追い打ちをかけた。
アジア人女性の命が、いとも雑に扱われている、そう思ったのだ。
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アメリカに暮らしはじめて24年、すれ違いざまに「チンク*」などと言い捨てられることも、「国に帰れ」「お前ら中国人のせいで仕事がない」などと絡まれるようなこともなくはなかったし、人種差別と言うものは、いつもそこに存在するものではあったけれど。トランプが大統領になってからあからさまな人種差別的言動が許容されるようになり、さらにはパンデミックがこれを悪化させて、自分の内容いかんにかかわらず、その姿を見て憎しみを持つ人がいるのだと言う現実がことさら日常に侵食してくるようになった。
*中国人に対しての蔑称
人生最初の23年を日本で過ごした自分にとって、「アジア人」としてのアイデンティティは二次的なものだ。「アジア人です」というタイミングといえば、たまに送られてくる国勢調査の人種にチェックするコーナーで「アジア人または太平洋島出身者」を選ぶときくらい。第三者が見る自分は確実に「アジア人」なのだろうけれど、自分のアジア人の友人たちがしてきたような「学校で虐められた」といった典型的なアジア人体験をしたわけではなかったから、アジア人としてのアイデンティティを主張してよいのか、素直に連帯できない気持ちも払拭できずにいた。
それがこの何年かの間に、自分のなかで大きな変化が起きた。そのきっかけはやはり、「Black Lives Matter(BLM)」が誘発した数々の人種をめぐる対話のなかで、アメリカ社会におけるアジア人の地位が語られるようになったことだ。しかし、ジョージアの事件は、さらに違うレベルで世の中を震撼させた。「Stop Asian Hate」がメインストリームのトピックのひとつになったのだ。
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メディアやSNSを通じて行われた「アジア人であること」をめぐる対話によって、 自分自身もこれまであまり深く考えたことのなかったアジア人差別の歴史を学んだ。
お金持ちのアジア人の息子であると思っていた知り合いが、実はカンボジアの虐殺を逃れて命からがら逃げ、アメリカにやってきたことを初めて聞いた。アジア系アメリカ人の約3分の2が、アメリカの国外生まれだということ、アジア人*という人口のなかでおよそ100語以上の異なる言語が話されていること、エスニックグループのなかでも最も多様であることを知り、アジア人というアイデンティティに連帯することに葛藤することすら、普遍的な「アジア人」体験なのだということを理解した。
*アジア系アメリカ人、ハワイ先住民、およびその他の太平洋諸島民
アジア人であると言うことに加え、 女性であるというレイヤーもあった。 世の中には、アジア人の女性だからこそ言われることがある。おとなしく服従的だと期待されたり、 もっと直接的に性的なことをジェスチャーされたり言葉を投げつけられたりすることがある。そして、たくさんのアジア人女性たちが日常的にそういう体験をしている。こうした事は、メディアによってアジア人女性がどう描かれてきたかと無関係ではない。映画『フルメタルジャケット』のなかでベトナム人女性が「ミー・ソー・ホーニー」と客引きするシーンが典型的だ。
エンターテイメントの世界で描かれるアジア人女性像は、多くの場合、性の対象か服従的存在か、はたまた無表情なアンドロイド的キャラクターか、いずれにしても、私の生きる社会にいる強く賢いアジア女性たちの姿とは全く違うものだった。女性にかぎらず、ステレオタイプのアジア人像が、アジア人差別に貢献してきた事は、疑いもない事実だ。
2018年に映画『クレイジー・リッチ!』が大ヒットしたときには、「スーパーリッチ」というステレオタイプに、個人的には違和感を覚えたものの、ハリウッドでオールキャストアジア人が実現したことに盛り上がるアジア人たちの姿を見て「なるほどな」と納得した。
以来、たくさんのアジア人の活躍に触れ、アジア人をめぐるナラティブ(語り)も多様化してきた。今年のゴールデン・グローブ賞では、アメリカで増えるノマド労働者たちをテーマにした『ノマドランド』を監督した中国系女性クロエ・ジャオが、監督賞を受賞して、ついにアジア人が正当に評価される時代が来たのだと喜んでいた(先日は、アカデミー賞でも、監督賞、作品賞など3賞を獲得した)。
ジョージアの事件が起きたのは、その直後だった。天国から地獄に突き落とされたかのようだった。社会のトップでアジア人が評価されても、それが社会の底辺隅々に反映されるとは限らない、そう考えたら絶望的になったのだ。けれどしばらく時間が経ったら、やっぱりトップのレプレゼンテーションは必要なのだと考え直した。目に入る世界にアジア人が当たり前に存在する、ということが、アジア人を驚異と考えたり、異質なものとして排除しようとすることを抑制するのだ、と。
自分のアジア人アイデンティティとのすり合わせは、自分が属する社会において、自分の種が圧倒的に下に置かれている、という現実の理解とともにやってきた。アジア系アメリカ人を研究するジェニファー・ホーが、多くの人間にとっては二次的にやってくるアジア人というアイデンティティについて言った言葉が印象に残っている。「アジア人としてのアイデンティティを持つことは、社会的正義に根付いた政治的選択である」。ヘイトがこれまで連帯を苦手としてきたアジア人たちを結びつけているのだと実感している。
文/佐久間裕美子 写真/Unsplash 編集/山田勇真(ELEMINIST編集部)
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